腹を決めるためには、心を決めることだ。
そして心が決まるためには、辻褄が合っていないといけない。
いわゆる「Make Sence」ってやつ。
実生活でエンジンが入らない時は、何かしらの意識が抜け落ちているか、考え切れていない部分と直面しているかのどちらかで、こういう時にしっかりあらゆる思考・構想の辻褄を合わせておかないと、結局「うさぎとかめ」の”うさぎ”側になってしまう。
そもそも人生において長い時間自分と向き合う機会はそこまでないんじゃないだろうか。したがって悩んでいる時は絶好のチャンスであり、恐れずに「Make Sence」するまで、いろんな部品を組み合わせながら解を探し続けるべきではないだろうか。
自分はかなり自己分析が進んでいて、その上に乗っかってくるような「モチベーション」「バリュー」みたいなところまで、ひとしきりの理解は終えたつもりでいたけれど、期節によって何を最重要視するかが変わってくる以上は、その節目で毎度、慎重にマインドセット(モチベーションやバリュー)の新調を試みることがどうしても必要になる。
そして、ここをめげずに乗り越え続けられるかが「持続させられるか」の天王山になる。
何事も続けることが大事だけれど、多分途中で手を引く時期は「外的な問題を解決し切れなかった場合」と「内的な問題(自己分析ができない・モチベーションが維持できない)を解決できなかった場合」の二つにあって、僕の見解では後者で頓挫することがほとんどなんじゃないかと思う。
「やりたいことがない」も「続かない」も、結局は「自分と向き合って積極的に辻褄を合わせにいく、途方もなく長くて陰鬱な時間」から逃げ続けているだけなんじゃないかと。
誰しも自分と向き合ってそこから何も出てこなかった時の失望を味わいたくないから、周りに合わせて、周りから視える自分を生きている方がよっぽど楽で、一見そちらの方がずっと健康的であるように思える。
でも、他者評価しか持ち合わせていない人同士は互いを大きく見せ合ったり、客観的でニュートラルな評価基準を暗黙の了解に、例えば年収だのポジションだので競い合う。
けれど、だ。実感としてはっきり言えることは、他の誰かと自分を比べたとて、心が完全に満たされることはないし、周りと比較しながら生きている時間ほど貧しいものはない。
資本主義が、人を競わせているんだろうか。
僕はそうは思わない。
価値基準が一元化されていることが、諸悪の根源だとは捉えない方がいい。
多分本当の問題は、価値基準云々の前に、ほとんどの人が「価値を見出すこと」を怠ったり、放棄していることにある。
オリジナルな価値基準を獲得するまでの長くて苦しい内省の時間を回避する代わりに、既存のパブリックな価値基準を自分のものだと言い張るようになって、それがネットワーク効果のように世界へ伝播し続けているんだと思う。
何が言いたいかといえば、おそらく今の時代に「自分と向き合う長い時間」は、最も投機的に価値のある時間消費である。
僕はここ数日間、まったく異なる2つの時勢の境目を歩いていた。そして、今しがたマインドセットの新調を終えたことで、こうして文章を書けるほどに冷静な情熱を取り戻した。そして改めて、これからもこの「内省」という時間を、焦らず大切に積み上げていきたいと思う。
Written by Shun Muraki. Thank you.