「全部ある中で自分はこれをやる」という意識

2022.10.25

人間はドラマや映画で描かれるような「感情のV字曲線・N字曲線」なるものを自分の人生に充てがう傾向があると思う。
それは時にはドラマチックでロマンチックな世界を生きていることに恍惚感を抱けるのかもしれないが、同時に「まったくもって深刻でもなんでもない状態を切り取っては悲劇のヒロインを気取り始めて最終的にますます気を病む」という悪影響だって被る。

「自分はこの理想を叶えるために、現実でいろんなものを失っていって、最終的にはこんなに質素な生活を送る羽目になった」というようなものは典型で、「一角の人間になろうとしたら多くの人が離れていくものよ」じゃないけど、なんというか「夢を追うことの孤独」みたいなものを強く意識しがちである。僕もそうだった。

でも、冷静に振り返っていけば、それは事実かもしれないけど、捉え方次第では「夢を追うために自分から離れていったわりに孤独だとか言って悲しむのは、ひとり旅の出先で『誰もいない!みんないなくなっちゃったんだぁ!ひとりだぁビヤァアアアアア』みたく喚き泣いているのと同じくらい変なこと」だとも言える。

要するに、多くの場合僕たちは電車に揺れているうちに車両に誰も残っていなかった時に抱く孤独感を、みんなが乗っている電車から自分が降りる時に感じてしまっているのである。
その心はつまり、今ひとりでいるこの瞬間も、別にあの電車にはみんな乗っているのであって、別に気が向いたらその電車に戻れば全部現状復帰できるというわけである。これを一言で言おうと思ったら「自分は何も失っておらず、常に全部がある中で今は”これ”をやるんだ」という意識である。

そして、この「全部」と「今の自分」の距離感をより正そうと思ったら、これは電車とか街とかそういうスケールの話でもまたなくって、実際はクラスの教室でひとり掃除用具入れにこもっているくらいの孤独に過ぎない。
そこに立てこもっている時間の長さから、いつの間にか僕たちは「もう授業が終わって教室には誰もいないんじゃないか」とか「学年が変わって別のクラスの教室になっていたりするのかな」とかどんどん悲劇ばっかりを思い込み始める。しかし多くの場合そもそも現実世界でこういったことは火星移住が実現しない限りは当分ない。みんな同じ地球にいて、なんなら別に生活している人だって住んでいる場所だって、僕たちの寿命を考えれば「基本は何も変わらずそこにある」と言えるでしょう。

「席替えくらいはあるかもしれないが、授業が終わることもクラス替えもないこの教室で、掃除道具入れにこもって持ち込んだPCをいじり続けている」くらいの認識の方が、ドラマや映画のような御大層な展開よりも遥かに現実的だし、遥かに健康的だ。

Written by Shun Muraki. Thank you.