「できる」と感覚的にでもなんでも思えたものにしか、「やりたい」とは思わない。少なくとも僕はそうだったのだな、とようやく最近になって理解した。
例えば今アイススケート未経験者の僕がトリプルアクセルを飛びたいとは思わないけど、例えばすでにダブルアクセルが飛べたとしたら話は変わってくるだろう。「トリプルアクセル飛んでみようかしら」と思うはずだし、実際の選手だってそうやってレベルを上げていくはずだ。陸上選手だって、例えば経験がなくてもなんかとりあえず走ってみてすごい結果が出て「このまま君次の大会出たら優勝できるよ!」なんて言われたら「出たい」と思うだろう。
「自分でもできる」と思った時に、ようやく興味を持ったりやりたいと思ったりするのが人間で、これが僕においては『エラゴン』だった。
僕はとりあえず最初のステップとして「いい製品を作って世界的なインパクトを創りたい」と思っているけど、でもこれは結局「自分でもいいものを作って世界にそれを届けることができるんだ」と思えていることが先行する。その理由は僕の考えでは、前出の本の著者であるクリストファー・パオリーニという人の存在が大きかった。この人のプロフィールを知ったのは小学3年生の時だったと思うけど、当時本屋さんのお子様用スペースに立派な本が置いてあってそれで手に取ったのがきっかけである。
この人はどうやら14歳くらいでこの『エラゴン』を書き始めたらしく、それを図書館に置いてもらったらそれが地元で話題になって最終的に世界的にヒットした、というようなことが、その本のカバーに書いてあったと記憶している。
僕はこれを読んだ時に「自分でも世界規模で何かできるんだ」と思えた。なんというか開眼した感覚があったのである。その理由は、結局その時も僕は本を書いていて「この人だって結局一冊の本を書いただけなんだから、だったら自分もこれまでよりすごい物語を書いたら同じように世界で売れる小説家になれるってことか!」なんて思えたわけである。限界コストゼロ産業のすごいところだと思うのだが、結局普通の小学生でも一流作家でも、必要とする環境は一緒なのである。これによって僕は「自分もクリストファー・パオリーニになる可能性をすでに持っているんだ」ということで、そこからなお力を入れて小説の創作に励み始めたわけである。
そして、この「やりたいこと」は、今に至るまで潜在的に働き続けた。僕は小説家から起業家に歩き方を変えてからも、依然として”世界的な成功を収める。年齢は関係ない”と強く大義を抱いていた。その理由が最近になるまで分からなかったのだが、あとになってすべての起源が『エラゴン』を見つけた時だったと気が付いた。
人はこの潜在的な意識に導かれるように、いろんな気づきを得たり多くの変化を起こそうとする。それは「やりたいこと」が潜在的にあるのに「それをせずにいる」ことが「不快」だからである。俗な欲求に従ったりその場の娯楽に興じたりすれば、必ず「そんなことしてていいの?」と後ろめたく思う自分が登場するし、やる気を失って足踏みしていると「手、動かさなくていいの??」と急かしてくる自分がいる。
こういったネガティブな感情に耐えかねて、結局人は「やりたいこと」と真正面から向き合わざるを得なくなる。(ここまでで伝わると思うが、潜在的な「これがやりたい」という意識はもはや運命みたいなものと紙一重で、それは分かりやすく言えば「理由なんてないけどあの人のことが好きになってしまったの!!!だからどうしても追いかけちゃうの!!」的な感じである。知らんけど)
僕の場合は「どうしたら『やりたいこと』だけをずっとやっていられるか」というイシューを立てて、結果SNSやメディアの視聴をやめたり、俗気がなかった割にはやりたいことに素直だった小学生の当時の感覚に戻そうとしたり。なんか分からんけど炭酸飲料をやめてお菓子を食べなくなった。孤独感との向き合い方を知って、計画を立てることを最優先するようになったり、自分にとって他に同じくらい大切だったことを思い出したり、それで小説家から起業家を目指した理由を今になって理解できたり。やりたいことをやることの大変さとか、スポーツ選手が狂気的に金メダルを追い求める理由に気付けた。
こうやって長い時間をかけて潜在的な「これがやりたい」という意識に踊らされて、今は”かなり”「『やりたいこと』だけをずっとできる」ような状態になった。これでようやくデフォルトのネガティブをゼロにできる。できることもやりたいこともないまま流されるように生きる人生だったら最初からデフォルトはこうだっただろうに。
ふと今の生活を見つめると、かなり小学生の頃の生活と環境が似ているように思うが、結局はそういうことなんだと思う。「やりたいこと」が潜在的に働き続けたことで、着々と”純粋に「やりたい」と思ったあの瞬間”に引き戻されていく。これは俗世で振り回される時間が積み重なるほど、俗人になればなるほど困難になるはずで、さらにいい具合に俗な細胞に入れ替わった大人になってから何かを「純粋に『やりたい』と思」える瞬間なんてものが訪れるのかは半信半疑である。
Written by Shun Muraki. Thank you.